『ハッピーボイス・キラー』

・他人に理解出来ない〈ヴィジョン〉を共有する

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この映画はスリラーなんですが誠に人を食った映画でして、とは言っても『食人族』などのカニバル物ではないわけです。

遺伝+実母殺害のトラウマから統合失調症にかかり、精神科医のお世話になっているジュリー・ヒックファン(ライアン・レイノルズ)は、ひょんなことから片想いしていたフィオナ(ジェマ・アータートン)を刺殺。家で飼っている犬のボスコと猫のミスター・ウィスカーズの口を借りて喋りだした心の中の天使と悪魔に唆され(原題は『The Voices』)、仕方なく遺体をバラバラに。と、今度はフィオナの首が「友達がほし〜い!」と喋りだしたのがキッカケで、遺体の山が築かれることに……という血なまぐさい内容です。

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ジュリーの行為だけ見ているとサイコキラー丸出し剥き出しで、実際サイコキラー扱いされているんですね。サイコキラーとは金銭や性欲などの目的で暴力を働くのではなく、暴力そのものが目的になっている奴等です。

でも、彼には犯行がバレた口封じとか、それなりの理由がある。にも拘らず、猟奇的に思われてしまうのは、殺害理由が【誰からも好かれる好青年になりたいから、それを拒むものは消すしか無い】っていう現実逃避した世界にあるせいで、他人には理解できないものとなっているからです。

そんなジュリーの世界はファンシー&キュート。そのヴィジョンをマルジャン・サトラピ監督が誠実に可視化したので、妙なチグハグ感と共感と〝ほっこり〟感が生まれ、結果、彼のヴィジョンを共有している観客だけが、サイコキラー唯一の理解者に仕立て上げられてしまうのでした。

家族の愛情に守られながら激動のイランで育ったサトラピが監督をしたからこそ、サイコキラーを冷徹に見捨てることなく、キチンと見守る視点が生まれたのかも知れませんね。

とは言っても、ジュリーは酷い自己欺瞞野郎なので、最終的には現実逃避しまくって、自分が殺害した人達や両親、キリストに祝福されて真っ白な空っぽの世界で『シング・ア・ハッピーソング』を歌い踊って勝手に昇天するんですから、全く困ったちゃんです。

まあ、多かれ少なかれ現実逃避ぐらい誰でもしている訳ですから、共感を呼んだのは作風だけではないのかもしれませんけど。

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