『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』

 

・ある意味で、地獄の自由を選んだ映画

世の中には「恋人の恋愛遍歴」とか「ジャンクフードの正体」等々、わざわざ教えてくれなくてもイイことがいっぱいあって、そんなのは知りたい人が勝手に調べて勝手に納得すればヨロシイ。好きな物に対してご忠告されるとゲンナリしてしまう。それは映画にも云えて、説明されると途端に魅力を失ってしまう作品は多々ある。

澁澤龍彦も『澁澤龍彦 映画評論集』の『カリガリ博士』を論じた章で、カリガリという象徴的な名前のあらわす〝無意味〟なダイナミズムがラストの見事な解決によって〝有意味〟になり、前衛的な作品が保守的な精神分析映画になってしまったと嘆く。芸術とは危険な無意味を志向するものなのだ、と。

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賛否両論入り乱れることとなった『進撃の巨人』の後編は、冒頭から延々説明が続く。その内容は「なぜこんな世界になったのか?なぜ巨人が生まれたのか?」という謎解きである。ネタバレ全開でぶっちゃけると、

「政府が人間を生物兵器にするため巨人化実験をしていたが、なぜか人類が続々巨人化してしまったので戦争が発生。文明は滅んだ」

ということだった。

コレは『ゴジラ』における「恐竜が核実験の影響で巨大化した」ぐらいの情報量で、正直な話、そんな説明をダラダラされても面白くなるはずがない。巨人という〝無意味〟で不穏な化物がつまらない説明で〝有意味〟になる瞬間を強制的に見せられるのは、本当に地獄だった。生物兵器とか言っても別に新鮮味ないし、退屈なんだから前編でサラッと言っても良かったと思うし、なんなら説明をバッサリ落としても問題ないのではとさえ感じる。

どうして後編がこんな構成になってしまったのか、少し調べてみると意外な真相が発覚した。なんと、クライマックスの超大型巨人のCG予算をとってくるためにムリヤリ前後編にわけたらしいのだ。一本の映画を二本にわけて延ばせば、そりゃ構成が破綻するのも当然というわけだ。巨人の大殺戮シーンは皆無で、丁寧すぎる回想もダサイし邪魔。前編の振る舞いから「ジャンは後編で大活躍するに違いない」と思っていたら犬死にだし、シキシマもなぜ心変わりしてエレンを助けたのか分からない。原作が未完だからなのか「END?」なラストも古くさい。ドラマと芝居の陳腐さも、引き続きトホホなもんだ。

二本にわけた理由は『WOWOWぷらすと』で町山智浩氏がポロリと言ったことで発覚し、それを見た春日太一氏もツイッターで言及している。

確かに、入場料一八〇〇円を二倍取ってしまえば興収は増えるかもしれない。

が、それでイイのか?

本作がヒットした場合、製作予算を増やしたいが為に無理矢理二部作にする映画が今後増えていく可能性は多いにある。それは邦画界にとってプラスになるのか?

製作陣が想いの丈を具現化するために〝地獄の自由を選んだ〟ということなのか?

本作は一応、壁を越える事に成功したと言えるだろう。しかし、壁の外にはまだまだ困難が待ち受けているようである。